男性となるためのレディースファッション
母親から鞄をもらった。もちろんレディースだ。
ちょうどレディースの製品が欲しかったのでちょうどいい。
僕は男性だ。あらゆる嫌疑なく、男性だ。身体的にも男性だし、精神的にも性的違和はなく、性対象も女性だ。
だが、男性であることは、僕が選んだことではない。
男性に生まれたくて男性に生まれたわけではない。僕の身体がなぜかそのように分類されてしまっただけだ。
僕は男性だ。嫌疑なく男性だ。
だから男性的な装いをして、男性的な規範を前提して生きている。規範に従うにせよ抗うにせよ、それは男性という立場からしか語りえない。
僕は男性だから、メンズの服に身を包む。
僕は別に、男性に生まれようとして生まれたわけではないのに。
だが、メンズファッションを着つつも、レディースの小物を身に着けていたら、どうだろうか。
何も変わらないと言えるかもしれない。ただレディースの小物を1つ持っているだけで、別に印象が大きく変わるわけではない。
ただ、意味合いが大きく変わるとも言えるんじゃないか。原理的には、レディースとしてパッケージされたものを選ぶこともできる。しかし、僕は僕として選びたいがためにメンズの服を選んでいる。
それを示すための最もスマートな方法は、1つでも女性向けの物を身につけることではないだろうか。レディースの商品も選べることを示すためには、それを選んでみるしかない。
これは、僕が女性に近づくということではない。
むしろ、僕が男性として生きることを主体的に選ぶことだ。男性として生まれたから男性として生きているわけではない。女性として生きることもできた。女性の装いを選ぶこともできた。しかし、僕は男性として男性の装いをすることを選んだ。
印象は大きく変わらないかもしれない。しかし意味合いは変わる。偶然的な性ではなく、必然的に自分が決定した性として、自分が男性であることは意味づけられる。
だから、僕がレディースの鞄を持つことは、僕が男性であるためだ。逆説的だが、レディースの鞄を持つことによって、僕は主体的に男性として生きていることを示すことができる。