ゴジラは人間を叱る:『ゴジラ対ヘドラ』感想
肚に重いものが垂れてくるような、決して不快ではないもやもや感(上手く言語化できないが、「痛気持ち良い」に近いのかもしれない。不快の快。)を感じることができる「面白い嫌な映画」だった。
やはり印象的なのは、アニメーションを所々に取り入れた、怪奇色に満ち満ちた画作りだが、ここでは「本作におけるゴジラの扱い方」に注目したい。
ゴジラ人形が出てくるメタフィクション
水爆実験から生まれた怪獣ゴジラは、シリーズ第1作『ゴジラ』では人類を襲う恐ろしい存在として描かれていたが、時代が下るにつれて「ヒーロー怪獣」になっていく。
作品ごとに「ゴジラ」は設定も作中の立ち位置もまるで違う。それがゴジラシリーズの魅力の1つだ。
さて、今作ではゴジラがどのように描かれているのか。
なんと、今作冒頭では主人公の少年がゴジラの人形で遊んでいるのである。そして、「ゴジラは一番好きかい?」と聞かれると、「スーパーマンだもん」と言い放つのだ。*1
そう、この世界は「我々が生きている側の世界」なのだ。*2
この描写の意味する切実さは、公害問題を歴史の授業で知り、青い空と青い海を当たり前のものとして享受している我々には本当の意味では理解しえないのかもしれない。
『ゴジラ対ヘドラ』が公開された当時、特に沿岸工業地帯の汚染は凄まじかったらしい。それは映画の中でも描写されているわけだが、ヘドロまみれの海は「怪獣が生まれてもおかしくない」というのが当時の人たちの実感であったのだろう。
だからこそ、ヘドラは「こちら側の世界」にやってきた。
「ゴジラがみたら おこらないかな おこるだろうな」
これは、先ほども言及したゴジラ人形で遊ぶ子供が書いた詩の一説だ。
ヘドラが初めて姿を現したシーンの直後、ゴジラが咆哮するカットが挟まり、この詩が画面にデカデカと映される。
げんばく すいばく/しのはいは うみへ
どくガス/へどろ/みんな みんな/うみへすてる
おしっこも
ゴジラが みたら/おこらないかな
おこるだろうな
(/は改行、引用中における改行は連の区切りを表す)
今作におけるゴジラは、間違いなくヒーロー怪獣である。
だがそれは、単に「悪役の怪獣を倒してくれる」ことだけを意味するのではない。
いわば、「叱ってくれる怪獣」なのだ。
「ゴジラ」という存在の重み
「叱ってくれるヒーロー」として、ゴジラ以上の適任はいないだろう。
ゴジラはかつての人間が起こした過ちによって生まれた怪獣だ。先人の過ちの象徴なのである。
ゴジラシリーズは社会問題に切り込んだ作品が数多くある(『対ヘドラ』はその代表格だ)。それは、ゴジラという存在が我々に語りかける者としていかに優れているかを物語っている。
我々人間は、きっとまた何かしでかしてしまうだろう。「歴史に学ぶ」などといくら言っても、どこかで過ちを繰り返そうとしている。
そんなとき、ゴジラは何度でも目覚めるはずだ。
ゴジラに怒られないように頑張らないといけないな。
追記:
ゴジラが飛ぶシーン、あれキャプ画でしか見たことなかったんだけど、この映画だったの…?あのシーンからどうしても全体がギャグみたいに見えちゃうんだよな…。面白いアイデアだとは思うけど、この映画でやる?マジで?