人格の回路は眠っているという仮説
久しぶりに高校の友達と会った。2年ぶりになる。
同じ部活(囲碁部)だった同期と1つ下の後輩。後輩に至っては久しぶりどころか、碁盤を挟まずに話すのは初めてだったかもしれない。
彼らとは2年も会わなかったが、そんなに仲が悪かったわけではない。碁を打ちながらほぼ休みなく口を動かし続ける程度には話が弾んでいた。ただ、僕らは別に部活以外での交流をしなかっただけだ。
とはいえ、あまりに久しぶりなので、どんな顔で会えばいいのやら、正直不安だった。それに、当時の僕らと言えば品性下劣なインターネットミームを並べたてることを「会話」と定義していた最悪のクソガキだったが、流石に今は違う。当時の会話をそのまますることはできない。
杞憂だった。会った瞬間に、当時の空気感を思い出した。
古く、忘れ去られた回路だが、一度電気が流れればそれは当時のまま、何も変わらず駆動した。
それから3時間ほど、ずっと喋っていたような気がするが、何を喋ったか覚えていない。他愛もないことだったんだろう。他愛もないことを話す間柄だったから、久しぶりに会っても他愛もない会話がただ止め処なく交わされただけだった。
こう考えると、人格というものの統一性は結構疑わしい。
僕は高校の囲碁部用の人格を大事に仕舞い込んでいて、彼らに会ったときにそれがまた動き出した。それは間違いなく僕だが、大学の僕とは少し違う。
人格は他者との相互関係の中でそれなりに適した形をとって現れるんだろう。
数日後、成人式がある。
小学校の同窓会に参加するとは言ったものの、結構不安だった。ただまぁ、なんとかなるだろう。小学校時代の回路もたぶんまだ生きている。
今回のように会ってすぐ復旧、というわけにはいかないだろうが、然るべき手順を踏むことさえできれば、当時の感覚が戻るんじゃないか。そんな気がする。たぶん。いや、希望的観測かもしれないけど。
とにかく久しぶりに会えて楽しかった。
それだけは、確実に言える。